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見えないものの大切さ

  
『ほしと たんぽぽ』

 あおい おそらの
     そこ ふかく、
 うみの こいしの 
     そのように、
 よるが くるまで
     しずんでる、
 ひるの おほしは
     めに みえぬ。

 みえぬけれども
     あるんだよ





  
 みえぬ ものでも
     あるんだよ。

 ちって すがれた
     たんぽぽの、
 かわらの すきに、
     だァまって、
 はるの くるまで、
     かくれてる、
 つよい そのねは
     めに みえぬ。

 みえぬけれども 
     あるんだよ、
 みえぬものでも。
     あるんだよ。

 
この詩は童謡詩人の「金子みすゞ」の作品です。


 わたしと ことりと 
     すずと

 わたしが りょうてを
     ひろげても、
 おそらは ちっとも
     とべないが、
 とべる ことりは
     わたしのように、
 じべたを はやくは
     はしれない。

 わたしが からだを
     ゆすっても、
 きれいな おとは
     でないけど、
 あの なる すずは
     わたしのように
 たくさんな うたは
     しらないよ。

 すずと ことりと
     それから わたし
 みんなちがって
     みんないい

 この作品はとても有名です。「みすゞ」の研究をされている矢崎節夫氏は、みすゞの作品を読んだとき、人間中心の自分の目の位置をひっくり返される、深い、優しい、鮮烈さを感じたと述べておられます。みずゞという人は人間だけではなく、鳥や虫、魚や木や草花、あらゆるものの側に立ってやさしいまなざしを向けられる人でした。そして、目には見えないものの大切さに気づいていた人でした。
夏休み中に、全国で行われている学力調査の結果の発表がありました。この学力テストは、小学生6年生と中学生3年生を対象に毎年実施され、2017年度からは政令指定市ごとの結果を公表しています。大阪市は指定市20市の中で平均正答率が2年連続で最下位でした。

 この結果を受けて、大阪市の吉村洋文市長は激怒し、来年度以降の全国学力調査の結果を、校長や教員の人事評価とボーナスの額に反映させる意向を明らかにしています。それと同時に各学校に配分される予算の額にも反映させる意向だというのです。
 このニュースを知り、背筋が寒くなりました。大阪市の教育はいったいどうなってしまうのだろうかと…。

 教育評論家の尾木直樹さんは、
 「大阪市がテストの結果を人事評価などに反映させれば、学校は点数を上げるためだけの指導を競い始め、教育が荒れてしまう。家庭の経済格差や生活環境などテストの得点を左右するデータは多く知られているのに、それらの分析からテストの結果の低迷の理由を探ろうとせず、現場の教師たちに責任を負わせるのも短絡的な考えだ。大阪市で教師になろうという若者も減り、教師の質を下げるだろう」と述べておられます。

大阪市の中学校校長からも
「むちゃくちゃだ。大阪市で教員をやりたいと思う人がいなくなる」と反発の声が上がっています。

 また、毎年高い平均正答率を出す福井の県議会は昨年、県への意見書を可決したそうです。教師に厳しく叱られた中2生徒が自死したのを受けた措置で、学力偏重が「現場に重圧を与え、教員と生徒のストレスの要因になっている」と指摘し、教育行政のあり方を根本的に見直すよう求めたものでした。

平均正答率が高いところでも、子どもが自死に追い込まれる事態を招いているのですね。

 そもそも、毎年数十億円もかけて対象学年の全員に受けさせる調査が、本当に子どもたちの教育に役に立っているのかと思います。文科省は子どもたちの教育の向上のために行っていると述べておられますが、学校の序列化を招き、競争を過熱させる副作用の方が多いように思います。調査にかかる費用はわたしたちの税金なのです。その予算があれば、もっと教員を手厚く配置したり授業方法を研究したりする費用に回せないものかと思います。

 もちろん、シュタイナー教育には、テストで子どもを評価することはありません。
シュタイナーは「性的成熟以前に、テストによる不安は人間の生理的な機構全体を非常に危険にさらします。それは、人間の生理的・心理的な素質を悪い方向にかりたてることになるのです。最もよいのは、あらゆる試験制度を廃止することです」と述べておられます。シュタイナーは、子どもの成長にとって生理的・心理的に害を及ぼすという理由から、明確に試験制度の廃止を主張しました。

 テストをして、今子どもたちがどれだけ理解しているかを把握しなければならないという考え方もありますが、教師は、テストをしなくても子どもたちがどういう状態であるかを知らなければならないといいます。

 また、シュタイナーは、政治と経済と精神(教育)のそれぞれの機構は相互に関連しつつも、相互において互いに独立するべきだと述べておられます。自立した私立学校が政治からの独立という点で望ましいと。

 日本の戦前の教育が、軍国少年、軍国少女を育成し、戦争へと突き進んでいきました。今も教育無償化という美名の下、国の介入を強め、産業の発展や競争力強化に役立つ教育が推し進められているように思います。

わたしが一番危惧していることは、このような考え方が乳幼児保育の場にも下りてきているということです。
 小学校へ行く前から早期教育を行うこと、学校での授業形態に早くなれるということで、設定された保育の下、自由に遊ぶ時間を奪われてしまうこと等です。

 わたしたちが目指す保育は、目には見えないものばかりです。
意志の力や想像力、人との関係性など、どれだけ育ったかは計れませんし、目には見えません。
でもたんぽぽの根のように、目には見えないけれど、春には美しい花を咲かすことができるのです。まさに、わたしたちの保育は、たんぽぽの根を育てているのだと思います。
 そして、一人ひとりの子どもたち。どの子も同じ子どもはいません。さまざまな個性と才能を秘め、この世での使命を果たすために生まれてきたのです。小鳥と鈴とわたしのように、みんな違ってみんなすばらしいのです。

 みえぬけれどもあるんだよ
 みえぬものでもあるんだよ

 すずとことりとわたし
 みんなちがってみんないい

by kusunokien | 2018-09-14 11:41 | くすのき園つうしんより

からだの不思議 ~健康と病気~

 シュタイナーの「からだの不思議を語る」という本を読みました。

 シュタイナーは「精神的なものが目に見えるものを創造する。」と語ります。

 私たちは、不安や恐怖を感じるとき、血液はからだの表面から引いて中心部に集まります。また、涙が出るのは悲しいときです。涙が出るから悲しいのではないですね。悲しいから涙が出るのです。心の経過の結果として、からだに経過があるのです。精神的、心魂的なものにからだが影響を及ぼすのではなく、精神的、心魂的なものがからだの土台になっているのです。
 シュタイナーは、「どの機械の背後にも制作者、整備士がいります。時計はひとりでに出来上がったのではありません。時計職人が作ったのです。何かができるためには、まず精神的な建設者がいなくてはなりません。」と語ります。

 シュタイナーは「健康と病気は、肉体だけに関係するのではなく人間の心と精神にも関係している。」と述べています、

 植物には心がありません。ですから植物の病気の原因は常に、外的な原因によるものです。土の有害な影響であったり、寄生虫、日照不足、風などの自然の作用などが植物を病気にさせます。一方人間はとても複雑な生きものなので病気になる原因を見出すのは容易ではありません。身体の健康を考えた場合、心のありようをも同時に配慮されなければならないという考え方は、最近では一般的になってきています。
 しかし、子どもにどのような生活をさせるか、どのような教育を受けさせるのかということが、子どもの健康と病気に結びつくと考える人は少ないように思います。

 シュタイナーは「子どもにたえず、いろいろひどい食品を食べさせ、記憶力に過剰な負担をかけて勉強させています。するとその子は正気を保てません。大人が子どもの精神を消耗させるのです。単に精神を消耗させるのではありません。精神はたえず身体に働きかけるのです。子どもに誤った教育をすると、その子の一定の器官を硬化させます。子どもの脳に負担をかけすぎると腎臓が病気になります。」といいます。

 腎臓は、脳の中の思考と結びついているのだといいます。脳の活動が秩序正しくないと腎臓の活動も順調ではなくなるのだそうです。子どもに勉強させすぎ、たくさんのことを暗記させると脳はまともに働かなくなると。脳はたくさん活動しすぎて、くたびれ硬化します。脳が硬化すると一生の間、脳は正規に働かなくなると。
 そして、人体はよく持ちこたえることができるので、全身がもはや正常に働かない、腎臓も正常に働かなくなるのは後年になってからなのだそうです。五〇歳ごろから現れる病気の原因は乳幼児期にあるとまでいいます。
 
 脳に負担をかけるということは、からだのあちこちにも負担をかけ病気への原因に結びつくということなのでしょうか。しかも、症状が現れるのはすぐにではなく後年になってからというのも気づきにくい要因になっているのですね。

 私たちは、子どもには健康で幸せな人生を送って欲しいと願って子どもを育てているのですが、子どもの心にも寄り添って負担をかけていないか気をつける必要があるのですね。

 また、シュタイナーは子どもが病気になる可能性が最大なのは乳幼児期だと述べておられます。永久歯が生えると、本来病気になる内的傾向はなくなります。人間は本質的に、永久歯が生えてから性的に成熟するまでの時期が最も健康です。その後再び病気になりやすい時期が始まります。と

 確かに子どもが小さい頃はよく熱を出し病気をしますが、小学校になると不思議なくらい毎日元気に暮らすようになりますね。
 
 シュタイナーは乳幼児の病気の多くは、両親から受け継いだからだを自分自身のからだに作り変えるための試練なのだといいます。子どもは七年かけて自分のからだを新しく構築するのだそうです。

 子どもは、生まれてから一歳ぐらいになるまでは病気にはとんどなりません。親の免疫がまだ残っているからです。一年が過ぎた頃から、親の免疫がなくなり始め、自分で免疫を作っていかなければなりません。小児病のほとんどが一度その病気にかかると、二度とかからなくなるといわれています。それはその病気に対する免疫ができるからです。病気はそのための試練であるともいえます。代表的なものでは、はしか、風疹、おたふくかぜ、水疱瘡などがそうですが、最近は予防注射などで予防することができ、集団で発病することが少なくなりました。

 シュタイナーは、病気の本質のところでこのように述べておられます。

 「健康であろうとするなら、病気をさけてはいけません。病気は健康の条件なのです。病気の結果、人間は強くなるのです。病気から免疫という果実を得ます。私たちが強さや健康を欲するならその前提条件である病気を背負わなければなりません。力強い健康を生み出すために、自然は病気を作り上げたのです。」と
 シュタイナーの生きた時代から今では医療も随分進歩しました。しかし医療がどんなに進歩しても決して病気はなくなりません。病気の本質は変わらないように思います。

 幼い頃、病気になったときのことを思い出します。いつも、ああしろ、こうしろとガミガミうるさい母親が、病気になったとたん優しくなるのです。病気になるのも悪くないなあと思っていました。
 子どもにとっては病気を克服したとき、病気になってしんどい、つらい思い出よりもむしろ、両親の優しさ、愛情を再確認する楽しい思い出として残るのではないでしょうか。

by kusunokien | 2018-04-10 15:26 | くすのき園つうしんより

シュタイナーが目指したものは何か(2)

 私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。

                        内村鑑三


 朝日新聞「折々のことば」から


 内村鑑三は明治のキリスト教思想家の代表的日本人です。




 「修練を積めば生活費が稼げるとの目的で、学校に行かされるのではなく、真の人間になるためだった。教育は、これに精進すればこんな見返りがあるという論法でされるものではない。次の世代が正しく、そして確実に生き延びられるよう、自らの持てるあらゆる知恵を伝えることにある。」

と続きます。


 シュタイナーも教育の目的は「真の人間」になることを目指したものでした。シュタイナーのいう真の人間とは、自由を獲得した人のことです。


 シュタイナーの言う自由とは


 自分が何かを行おうとするとき、世間的な思惑や外的な決まりを第一に考慮するのではなく、自分が正しいと信じることを自分の責任で行おうとする。外からの規制ではなく自分個人の判断によって行動し、その行為には責任を負うというあり方です。


 自律した人間を目指すということですね。何をするにも親が言ったから、偉い人が言ったから、あるいは友だちが言ったからするのでは、何か問題が起こったとき人のせいにしてしまいます。親が悪い、学校が悪い、社会が悪いと。不平不満ばかりが募っていきます。

自分の行為に対して責任を負うには、自分個人の判断で行わなければなりません。  


 ではどのようにすれば、自由な人間を育てることができるのでしょうか。



 人生の構成要素は何か


 思考 感情 意志


 人間の人生というのは自分が考えたこと、自分が感じたこと、自分が行為したことの総体です。どんな小さな行為でもこの3つから成り立っています。たとえば「A町に行く」という行為でも、まずおいしいケーキが食べたいなあと感情が動きます。A町にはおいしいケーキ屋さんがあるのでそこへ行くにはどうすればいいか考えます。自転車で行こうか、バスに乗って行こうかと。考えが決まったら実行します。


体験とは、感じたこと、考えたこと、意志したことから構成されています。


この3つをどのように育て自由な人間を目指すのかがシュタイナー教育の目的です。

この3つを育てるためにはバランスよく育てることがとても大切です。


どれかに偏らないということです。偏っていると何もなすことができません。思考に偏ってしまうと頭でっかちになります。感情だけに偏ると考えも実行する力もないので何もできません。意志だけでは闇雲に動いているだけです。


 シュタイナーは思考、感情、意志を育てるのにはそれぞれ育てる時期があるといいます。育てる時期を間違えると弊害がでてきます。


意志は〇歳~七歳に

感情は七歳~十四歳に

思考は十四歳~二十一歳に育てます。


 その中でも意志を育てるのが0歳~七歳の無意識の時代です。この時期に育てることを怠ると、後に意識して身につけようと思ってもとても難しく困難です。


 どうすれば意志は育つのでしょう。


 意志を育てるためには、自由に遊ぶ時間が必要です。四六時中、指示や命令で動かされていたのでは意志は育ちません。


しかし、自由に好き勝手にただ遊ばせるだけでは、正しい意志は育ちません。どんな行為を選ぶのかがとても大切なこととしてあります。利己的な行為なのか、他者への愛による行為なのかが問われるのです。教育とは正しい意志の教育ともいえます。


教育の基礎となる一般人間学というシュタイナーの本の中で、意志の本質が述べられていました。


 意志はまず本能、衝動、欲望の領域に見出されます。乳幼児期の子どもたちはまだこの低次の領域にあります。その意志を自我がとらえると動機を生み、願望、意図、決意へと高次の領域に進むことができるというのです。動物には自我がないので動機を持つことができません。ですから一生、本能、衝動、欲望から抜け出すことができないのです。


 シュタイナーは動機を認識することがとても大切だといいます。自分が行っている行為はどういう動機で行っているのかが認識でいると自由な人間になれるというのです。


 刑事ものやサスペンスなどのドラマを見ていると、犯罪者の動機を追及していくものがほとんどです。犯罪を犯すにいたった動機を解明することによって、ドラマを見ている人に、ただ犯罪を憎むだけではない人間性を見出し、心が癒されるのでしょう。


 今私が行っている行為は、本能や衝動や欲望で動かされているのか。憎しみや怒りや嫉妬で動いているのか、復讐心や義務感から動いているのか、感謝の気持ちや、愛情によるものなのか、敬虔な感情や、忠誠心によるものなのか。自分が行っている動機を認識できたとき人は自由になれるのだと思います。


本能や衝動や欲望に支配された行為は、利己的な行為になりますが、動機を認識することによって高次の意志へと導かれ道徳的な行為へと進むことが出来るのですね。


 人は様々な感情によって行動を起こしますが、そこにとどまるのではなく思考の力(認識)が加わることによって正しい行為へと導かれるのです。

 シュタイナーは、何の外的な基準によらず、イデオロギーや教義によらず、一人ひとりが自分の体験、自分の感覚、自分の思考、自分の直観、自分の良心、自分の判断に基づいて行動する自律的な人間へと前進していくことが「自由の理念」であり「自由の哲学」だと述べておられます。


思考、感情、意志


どれも怠ることなく大切に育てたいものです。


 特に〇歳~七歳までの意志の教育では、これは正しいことなのだと言って聞かせるだけでは育ちません。大人が子どもに良いモデルを示すこと。これこそ子どもの中に正しいものとして確信するものを毎日行わせること。反復して行わせること。その行為を習慣まで高めてあげることで意志は育ちます。

 

 主体性を育てるのだという理由で、早くから子どもに判断をさせることも慎まなければならないことだと思っています。未熟なまま判断を行うと正しい判断はできません。子どもは、まず人の話を聴くこと、多くのことを謙虚な気持ちで学ぶことが大切です。


最後にシュタイナーのことば


行為への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすこと、これが自由な人間の基本命題である。


大人になった私たちにも大切にしたいことばです。


by kusunokien | 2018-01-13 19:28 | くすのき園つうしんより

自由への教育 シュタイナーが目指したものはなにか

子どもを畏敬の念
をもって受け止め
愛をもって教育し
自由に向けて解き放つ
     Rシュタイナー


 シュタイナー教育は自由への教育といわれます。「自由」という言葉は私たちに、「いいなあ。子どもは自由にのびのび育って欲しい。」と思います。自由という言葉に憧れを持つのは、私たちは未だに自由に生きていないと思っているからなのかもしれません。
「自由」とはいったいどういうことなのでしょう。幼いころから、自由に好き勝手させることが自由な人につながるのでしょうか。

 ミヒャエル・エンデ著の「自由の牢獄」という短編集を読みました。エンデは「はてしない物語」や「モモ」の本でも有名です。彼は、シュタイナー学校出身でシュタイナーの思想にも影響を受けていると言われています。

 「ミスライムのカタコンベ」という短編では、主人公のイブリィーは深い地下の世界に住んでいます。ここの人たちは影の民と呼ばれ、ここからどこへも行ったことがありません。この世界の最高司令官べビモートは、いつも影の民に語りかけ、指示や命令を与え、ほめ、叱り、仕事を指導しています。陰の民は誰一人そのべビモートの言葉に逆らうものはいませんでした。
しかし、ある日イブリーは気づいたのです。世界はここだけではないのではないか、この世界の他にもいくつもの世界があるのではないか。そうだとするとここは牢獄以外のなにものでもない。あの最高司令官はただの牢番にすぎないのではないか。と
イブリーは外の世界に通じる出口を探し、地下の中をさ迷い歩きました。そんなかってな行動をしているのはイブリーただ一人です。イブリーは影の民に説得を試みました。私たちは囚われていること、外には自由な世界があることを伝えました。そして、団結して戦い権力者から私たちの自由を勝ち取るのだと訴えました。
イブリーに従うものが次々に増えていきました。やがて彼らは棒やパイプなどを手に取り迷宮の中を行進していきました。ついに出口に到着したとき、司令官べビモートが立ちふさがります。彼は聴衆に向かって語りかけます。「ここから出て行きたければ出て行っていいんだよ。しかし、この外に何が待ち受けているか知っているか。外の世界はお前たちが住める世界ではない。右も左もわからなくなる。お前たちが頼れるものはそこには何もない。すべてを決めなければならない。巨大な空虚がお前たちを飲み込むのだ。さあ決めるがよい。この男と共に脱出し、滅びるか。」と。みんな立ち止まってしまいました。
その出口から出た者は、イブリー一人だけでした。イブリーが外の世界に足を踏み入れたとき、影の民は、イブリーの絶叫を聞きました。でもそれが歓喜きわまる叫びなのか、絶望の叫びなのか言えるものは誰もいなかったそうです。

もう一つの話はこうです。ある男が大きな円形の建物に連れて行かれます。そこには窓がなく壁には無数の扉が連なっており、どの扉も閉じられていました。男はこの場所から逃れたいと思いました。けれどもどの扉を開けて逃げ出せばいいのか迷っていると、姿の見えない声がしました。
「扉には鍵がかかっていないよ。どこからでも出て行ける。けれども、ある扉の向こうには、血に飢えたライオンが待ち構えているかもしれない。また、違う扉の向こうには、妖精でいっぱいの花園かもしれない、また、ある扉の向こうには、宝石がいっぱいあるかもしれない。またある扉の向こうには、恐ろしい怪物が待ち構えているかもしれない。お前はここで己の運命を選ぶのだ。よき運命を選ぶがよい。ただし、一つの扉を開けたが最後、他の扉はすべて鍵がかかってしまう。やり直しはないぞ。よく選ぶがよい。」
 男は円を一周してみたり、扉の数を数えたり反対方向に回ったりしますが、選べません。日が経つにつれて扉の数がだんだん減ってきました。最後はたった二つになりました。けれども、無数の可能性から選ぶのも、たった二つから選ぶのも度々のつまりは同じことでした。選べません。そして扉は一つになり、ついにすべてなくなってしまったところで、男は夢から覚めました。

 この二つの物語から、私たちは、いまだ自由を求める旅人なのだと思いました。 人間は、封建制のような身分制社会から民主主義社会へと人間の自由度を拡大してきました。しかし、未だに「自由な社会に放り出される不安。」「選べない」。という自立できない現実が立ちはだかっています。また、自由な行動が個人主義、利己主義に陥ってしまったり、罪を犯してしまったりする危険も待ち受けています。

シュタイナーは、人間は自由なのかどうかと問うのではなく、いかにして自由になりうるかと問うべきであると言います。

 旧約聖書の創世記には、アダムとエバの物語があります。神さまから決して食べてはいけないと言われていた木の実がありました。ある日、エバは蛇に「この実を食べると神さまのように善悪がわかるようになるよ。」と、そそのかされ食べてしまいます。神さまは怒って二人をエデンの園から追放してしまいます。
人は神によって創造されましたが、神のあやつり人形ではありません。もし神がアダムとエバを思い通りにしたければ、最初から「知恵の実」を植えなければよかったのです。しかし、神さまはそうされなかった。神さまは人に自由を与えられましたが同時に罪を犯す自由も与えられました。

神さまは、誰かに(神)言われたからするのではなく、自分の意志で善を成すことができる人間になってほしいと願われたのかもしれません。

 フランス革命のスローガンに自由、平等、友愛があります。シュタイナーは法の下での平等を、経済には友愛を、精神には自由をと訴えておられます。
シュタイナーのいう精神の自由とは「自分の生きる理念、生きる意味に照らして、不完全さを認めたうえで最善の行為を選べることこそが自由である。」と述べておられます。正しい行為を選ぶこと、その誤りを最小限にできるように人間性を磨くこと。そのことが真の意味で自由になるということなのだと。

ではどのようにすれば精神の自由を育むことができるのでしょうか。

 シュタイナーは0歳~7歳までに模倣環境を整えることによって精神の自由を育む基礎を作ることができるといいます。
模倣活動というのは、周りを信頼し、それと同一化しようとする試みなので、自由に開かれた精神を備えているというのです。模倣活動は誰かに言われたから行う行為ではありません。
大人の役割は、模倣に値するよきモデルになることです。そして、


子どもを畏敬の念を
もって受け止め
愛をもって教育し
自由にむけて解き放つ


忘れてはならない言葉です。


樋口早知子

by kusunokien | 2017-09-05 01:47 | くすのき園つうしんより

色の不思議 にじみ絵の世界

 お空の虹の橋
 お空いっぱいきれいな色
 お空の虹さん降りて来い
 私のところへ降りて来い
 私はおまえと
 お絵かきしたいの

 子どもたちは、このうたを歌ってにじみ絵をします。にじみ絵とは、水でぬらした画用紙の上に、植物性の透明絵の具、赤、青、黄の色で自由に描きます。紙がぬれているので色がにじみ、赤と黄色が混ざるとオレンジ色が生まれ、黄色と青が混ざると緑が出来ます。子どもたちの絵は自由に描いているうちに様々な色が生まれ、形が変わり、刻々と絵は変化していきます。

 にじみ絵はどの子も大好きな活動の一つです。シュタイナーは、「私たちは、線描画を描くときは本質的に死んだものを描いているのです。それに比べて、色彩を使って描くときは、色彩の中から生きたものを呼び覚まします。」といわれます。
それゆえ、シュタイナー教育では、子どもたちを色彩の世界に親しませることを大切にしています。では、

 色はどうして生まれるのでしょうか?

くすのき園に「おひさまがかぜをひいたら」という絵本があります。
ある朝、いつものように目をさましたお日さまは高熱を出し、世界に色を塗っていく仕事ができなくなります。そこでお日さまは、見習い坊やに頼んで色塗りをまかせます。ところが見習い坊やは、間違いだらけの色を塗っていくのです。歯の色が真っ赤だったり、鼻血の色が緑だったり、くだものや信号機、動物たちの色もめちゃくちゃ。世界は大混乱になるというお話です。
もしも本当にこんなことがおこったら、気が変になってしまいますよね。でも、
地球上の大半を占めている空の色はどうして青色なのか、植物の葉の色はどうして緑色なのか。考えてみれば不思議です。

ゲーテは、「光が単独で色彩を生み出すのではなく、色彩は光と闇が出会う境界において初めて生じる。」と述べています。色彩が生まれるためには光と闇が触れあわなくではならないというのです。ゲーテは実験から、白く見える光を弱くしていくと黄色が現れ、オレンジ、赤と変化していきます。また、暗くて何も見えない状態から光を強くしていくと青色が現れ、水色、緑、黄緑と変化していくことを知りました。

このことは、沈む夕日を見たとき実感できます。太陽の色は空の高いところにあるときは白に近い色をしています。だんだんと西の空に傾いていくと(闇に近づくと)黄色になり、沈む前にはオレンジに変化していきます。  
刻々と時間が経つにつれて空の色や雲の色が様々に変化していく様は、まさににじみ絵の世界なのです。シュタイナーは子どもたちに、にじみ絵を描くことによってこのような体験をして欲しいと願ったのでしょう。自然の色は本当に美しいです。

 色は、私たちの心にも働きかけます。赤色を見ると活動的になったり、怒りを表したりします。青は平静さや悲しみを、黄色は明朗活発。オレンジ色は暖かさを感じ、朱色はエネルギーを感じられます、緑色は見ると心が落ち着きます。色は、私たちの心を癒し感情を豊かに育んでくれます。

 今まで、当たり前のように思っていた、空の色が青いのも植物の色が緑色なのも、私たちが心穏やかに平安に暮らしていけるようにという神様からの贈り物なのでしょう。

シュタイナーは色についてこんなことも述べています。
 「肉体は空気を呼吸しますが、私たちの生命体は光を呼吸します。私たちが空気中の酸素を吸収してそれを炭酸ガスに変えるように、生命体は光を吸い込みますと、自分の中で光を消化し、その光を暗くします。私たちはその光を受けて生きていくのです。そして、その闇を吐いたとき、その光が色彩となって輝き出るのです。」と 

 私たちが、光を吸い込み闇を吐き出すとき、色彩が生まれるというのです。嘘のような話なのですが、考えてみると生命のいない月には色がありません。

 私たちは、生きているだけで、地球上にこんなにも美しい色を生み出していると考えると、生きている意味を見出すことができます。たとえ、寝たきりになっても、重いしょう害があっても、人に迷惑をかけるだけの存在であってもかけがえのない命なのだと。
そして、この地球に存在す、鳥や虫、動物たち。草木、花。みんなでこの美しい色を織り成してくれていると思うと愛おしさがこみ上げてきます。
生きとし生けるものみんな大切なものなんですね。


樋口早知子

by kusunokien | 2017-04-11 20:00 | くすのき園つうしんより

才能と障がい

ミヒャエラ・グレックラー著の「才能と障がい」という本を学びました。

私たちは子育てをするとき、その子の素質や才能を見つけることは喜びであり、障がいがあることがわかると失望し、できればその障がいを取り除きたいとも思ってしまいます。私も、大人が子どもに援助してあげることの大きな課題は、い ち早くその子の持っている素質や能力を見つけ、それを伸ばしてあげることにあると思っていました。 

しかし、この本の趣旨は、「子どもの持っている素質を多方面に援助するのではなく、一人ひとりが持っている苦手な部分や障がいと、その子が向き合うことができるようになるには何ができるのか。」ということにありました。

又、この本は、私たちの今までの価値観や生き方の問いにもつながっていくものでした。

まず、才能や障がいはどこからくるのか?という問いからはじまりました。

たいていの人は、それは遺伝と、育った環境によると答えると思います。では、何故、同じ両親から生まれ、同じ環境で育った兄弟はこうも違うのかという問いが出てきます。

この問いに対して、今では科学者の間でも新しい考え方が生まれてきているそうです。遺伝に関しては、予測できない新しい特徴を発生させる遺伝子があり、環境に関しては、個人が環境の影響を選択するからだといいます。同じ母親でも兄は、やさしい母親だと感じ、弟は、がみがみうるさい母親だと感じるように感じ方が個人によって違うと。すなわち同じピアノを弾く場合でも、弾く個人によってまったく違う弾き方をするということなのですね。

同じ遺伝子、同じ環境で育っても、人にはそれぞれ違う個性があり、何をどう選んで生きるかは個人に任されているのです。

人間と動物の本質的な違いは、動物には個性と自由がないということ。ライオンならライオンという種としての特徴はありけれど、一匹、一匹のライオンとしての個性はありません。動物は本能によってしか行動することができず発展という要素がありません。能力や障がいと共に生き、対処することを学ぶことは人間においてのみ意味があるのです。

けれども、自分の子どもが障がいをもって生まれたり、治る見込みのない病気にみまわれたりしたら「どうして自分の子がこんなに苦しまなければならないのか。」「どうして自分が。」と思ってしまいます。

グレックラー氏は「何故、私の子にかぎって。」という問いではなく、「私は、このことによって何を学べたのだろうか。」「これからの私の成長にこの事実がどう影響してくるのだろうか。」という問いに変えること。すなわち、悲しみや病気や痛みの意味を見出すことができれば、現在の障がいや困難をうまく処理することができるといいます。

グレックラー氏は、障がいや病気、辛い悲しい出来事は、それを乗り越えたとき、自分を向上させてくれ、自分を成長させてくれるものになるのです。と述べておられます。

では現在の社会において障がいと才能をどのようにとらえたらいいのでしょうか。

グレックラー氏は、健康な精神の活動を可能にする基盤は、認識と感情と意志が調和のとれた状態で一緒に作用しなければならないといいます。何故なら、私たちの人生は、考えたこと、感じたこと、意志したことから成り立っているからです。

その子の持っている才能や障がいの部分に多く目を向けたり、その面ばかりを重視したりすることは絶対にしてはならないといいます。特に才能があることを望ましい有益な素質だと本人自身が喜ばしく思ったり、反対に障がいがあることを、できたら捨ててしまいたい欠点だと考えて嫌がったりする意識を呼び覚ますと、本人が自由に生きることの邪魔になってしまうと。

グレックラー氏は、現在社会において最も大事な学校教育の課題は、偏った成長を防ぐことだといいます。意志を育てること。感情を育てること。思考を育てること。この3つのバランスが大切なのです。

今の社会は、意志も感情も育てるという意識がなく、ひたすら思考に走っているように思います。

知能が高くなればなるほど、高慢や冷酷になり、計算高く、思い上がりが強く、よそよそしい態度をとるようになる危険性が高くなります。知能だけ発達しても人間的になる保障はないと。

ある有名大学の医大生が女性にお酒を飲ませて集団で暴行したという事件がありました。彼らは、家庭環境にも恵まれ、成績も優秀だったに違いありません。けれども、人間的には育たなかった。そういう意味では、才能のある子を育てることの方が難しいように思いました。

グレックラー氏は人間的であるということがどういうことなのかも指し示してくれています。

  思考の理想像は真実。
  感情の理想像は愛。
  意志の理想像は自由。

この3つの理想像を心に描き、どうしたら真実に近づけるか、どうしたら愛する能力が得られるか、どうしたら自由な境地に達せられるかと問うてみるのです。

真実の対極にあるものは嘘と誤解だといいます。誰かを通して聞いたうわさを信じないということが大切です。

愛の正反対は、憎しみと恐怖です。憎しみは、小さな量でも、反感、無関心、他人への批判というさまざまな衣を着て現れるのだといいます。

自由の反対は、まやかしの自己賛美と打算的な権力志向です。 

そして、真実と愛と自由の前段階にあるものは、関心と評価と信頼だといいます。興味や関心が妨げられるものは、独断と批判であり、他の人を認知し尊重を妨げるものは、徒党を組むことであり、信頼関係が成り立つ前提は、目指す事柄を最も大切にし、個人的な好みに左右されないことです。 

自分の内部に住むこの人間性の敵を発見し、克服することができるようになることが大切なのだと。

最後の結びでは、どのような教育や環境で育ったとかで私たちの精神は左右されません。外部からの影響や人生での出来事が決定的に作用するのは、私たちがどのような姿勢でそれと向かい合うかによって決まるのだといいます。私たちがそれを宿命として受け入れるか、またはそれらから、私たちを未来に向けて導いてくれるものを引き出そうと心に決めるかで大きく違ってくるのです。と述べておられます。

人気のハリーポッターの小説では、持っている才能ゆえに、悪の道に陥った魔法使いに、自分が似ていると悩んでいたハリーに魔法学校のダンブルドア校長は、
「自分が本当に何者かを示すのは、持っている能力ではなく、自分がどのような選択をするかということなんじゃよ。」といいます。

すぐれた児童文学には、子どもたちへの素晴らしいメッセージがこめられているのですね。
私たちも生き方を問い直し、子どもたちによいメッセージを送ることができる大人になりたいものです。

樋口 早知子

by kusunokien | 2017-01-11 00:35 | くすのき園つうしんより

子どもたちにメディアの脅威がやってきた

 夏休み、日本シュタイナー幼児教育協会主催の講演会に参加しました。講演の内容は、「子どもを取り巻くメディアの影響」ということでした。講師はウルケル・ペッター氏です。ペッター氏は、私たちは今、デジタル時代を生きていて、大きな革命的な変化が起こっているといいます。

 大多数の人が持ち歩くスマートホン。[ポケモンGO]のゲームが話題になっていますが、本当にスマホの普及率はすごいですね。電話やメールはもちろん、わからないことは簡単に検索できるし、友人と手軽にコミュニケーションをとることができるし、道に迷えばナビ、退屈すればゲームや電子書籍とスマホ一つであらゆることができます。「便利そうやなあ」と誘惑にかられますが、いやいや「先生の携帯すごい!折りたたみ式や」と言われているので、もう少し自慢しておこうかなと思っています。でも、もうメディアなしには生活していけない時代になっていることを痛感しています。

 ここで問題なのは、子どもにメディアの影響が深刻になってきているということです。シュタイナー関係の人だけではなく、日本でもメディアの子どもたちへの影響を考える人が出始めています。

脳科学者の川島隆太氏は、仙台市立小学校・中学校の児童7万人のデーターを解析して、スマホの使用時間と成績の関係を調べました。
その結果、スマホや通信アプリの使用時間が長い子どもから、せっかくやった学習内容が消えてなくなるということが判明したそうです。また、長時間プレーする習慣で脳の発達が遅れるというのです。テレビを見たりゲームをしているときは、前頭前野という物事を考えたり、自分の行動をコントロールする力に血流量が下がり働きが低下してしまうのだそうです。テレビを長時間見たりした子どもは、思考や言語を司る部分の発達が悪くなると。
川島隆太氏は「脳の解析データーを見て絶句し、自分の子どもにスマホを与えたことを大いに後悔しました。」と言われていました。

 また、小児科医の田澤雄作氏は、「メディアにむしばまれる子どもたち」という本の中で、「大人には便利な電子メディアでも、子どもにとっては心身の成長発達を脅かしかねない前代未聞の問題です。」と述べておられます。

 警鐘を鳴らしている人すべてが言われていることは、本来の直接的な人間関係が希薄になってしまうということです。

 田澤雄作氏は、
 「いじめの背景にあるのは、赤ちゃんの時代からの映像メディアとの過剰接触に始まります。そのことにより、親子のコミュニケーションを希薄にさせ、その結果、言葉の土台である聞く力、話す力が育ちにくくなり、子どもたちは幼いままの心を抱えて大きくなります。
 やがて思春期がやってきます。過熱した進学競争やスポーツなどの過酷な部活動の中で、子どもたちは睡眠や休息の時間を削られ、さらに魅力(魔力)満載の電子機器に吸い寄せられて、さらに時間を盗み取られ、慢性疲労を抱え、笑顔を失い、学力、コミュニケーション力や気力を低下させ、自尊心をも低下させます。抑制力も共感する力も、育成されないどころか、日々弱められ、学校や家庭での問題行動の引き金となります。」と述べておられます。

私も中学生の孫がいますが、深夜までメールやゲームに明け暮れていると聞きます。いつも眠くて疲れている感じがします。田澤氏のいうことは人事とは思えません。他の子も皆やっているとのこと。
怖いですね。子どもたちは、どうなってしまうのでしょうか。

また、文部科学省は2015年に小中高校で使用する教科書をデジタル化する方向で検討に入ったそうです。5年以内にタブレットなどの情報端末を一人一台配布することを決めています。
先生の変わりに、ロボットが子どもたちを教える時代がすぐそこに来ているようです。教育だけではなく、育児も介護も然りです。

育児も教育も介護も手間隙がかかる仕事です。だからこそ成長への喜び、感謝への気持ちを与えられます。人間としてこれほどの幸せはありません。
どんなに科学が発達しても、育児も教育も介護も、機械には絶対任せられない領域です。

目覚めよ、大人たち!

なんだか、SFの映画のようになってきましたが、今、まさに現実の社会になっていることに気づかないと本当に手遅れになってしまいます。

 ペッター氏は、決して後ろ向きに、かってあった時代に逆戻りしたいと思ってはなりません。現在の人類が直面している問題で、多くの辛いこと、困難なことがおこってもこの時代を通過していかなければなりません。といわれます。

 教育における課題は、本当の意味でのメディア教育を行うこと。それぞれの年齢に応じたあり方をしなければならないといいます、

 たとえば、「自分で物を買う」という行為は、ある年齢にならなければさせません。5,6歳になったころでしょうか。
 アルコールを飲み始めるのもふさわしい年齢があることは自明のことです。
車の運転もある年齢になるまでさせないということも皆、認識していることです。ところが、メディアには、子どもが自立して、それとかかわる年齢があることが確立していません。と。

 ドイツでもゲーム協会に対して異を唱える保護者組織があるそうですが、協会の力が強すぎて歯が立たないそうです。日本でも産業界から、教育の中にコンピューターを持ち込むように圧力がかかっているそうです。それは、幼児期からコンピューターを与えておかないと世界から遅れてしまうという脅しを使って。

 ペッター氏は、私たちは、子どものころコンピューターは使っていませんでした。けれども、今、たいていの大人は使っています。そのことを思い出して欲しいと言われていました。

これからの時代、メディアとの関わりを避けては通れません。それゆえ、お酒や、運転免許のように、ふさわしい年齢になるまでは使わせないということを、多くの大人が認識しなければいけないと思いました。

 子どもたちには、架空の世界で遊ぶのではなく、本当の光を、花を、虫を、石を、木を、動物を。手でさわり、匂いをかぎ、耳で聞き、目で見ることができますように。

メディアをつかって、空間を探索するのではなく、自分の体を自分で動かし、行動し、その道程で様々な出会いを体験し成長していけますように。

メディアを通して人と出会うのではなく、いつも子どものかたわらには、現実の心をもった人間がいて、その人を通して自分や人や世界を知ることが出来ますように。


樋口 早知子

by kusunokien | 2016-09-01 12:18 | くすのき園つうしんより

手仕事には神が宿る

「手仕事には神が宿る」と言ったのは、インドのM、Kガンディーです。
ガンディーは非暴力で英国からの植民地支配からインドを独立へと導いた人です。

先日、卒園児のようこちゃんのお母さんから手縫いで作るズボンの作り方を教わりました。
ようこちゃんのお母さんは今、ラオスに近いタイの国で民宿を営んでおられます。
その近くの村の人たちは、生活に必要なものはほとんど手作りで作るのだそうです。
着る服も、綿を育てそれを糸に紡ぎ、布を織り、染め、そして服に仕上げます。

かつて私はミシンで簡単な服を作ったことがありますが、ミシンは上糸と下糸のバランスが崩れると糸がつり、イライラしながら作ったことを思い出します。
ところが、手で縫う作業は心地よくゆったりと柔らかな幸せな気持ちで満たされました。
そんな体験をしたとき、新聞でガンディーの記事を見つけたのです。

ガンディーは単に英国から政治的に独立すればいいと思っていませんでした。
本当の非暴力とは、人間のあるべき姿とは何かを、人々に説きつづけるものでした。

英国は、十八世紀の産業革命以降、機械で作った大量の綿製品を植民地化したインドに売りつけました。これより英国は栄え、綿織物が盛んだったインドには多くの失業者が生まれました。

富めるものが貧しい人々から摂取することで発展するシステムをガンディーは「経済の暴力」と痛烈に批判しました。機械文明が人間を狂わせていると考え、糸車で自らの衣服を作るよう呼びかけたのだそうです。

さて今、日本に住む私たちはどうなのでしょうか。
ガンディーは、
「現在、先進国で暮らす人々の極めて豊かで便利な都市生活は、アジア、アフリカ、その他世界中から持ち去られた財貨によってのみ可能となっている。人間の真の自由は、機械文明が作るグローバル経済から独立した一人ひとりの手仕事の中にある」と述べておられます。

先日、「機械やロボットが私たちの仕事を奪う。」というテレビ番組を見ました。
近い将来、いやすでに始まっているのですが、人間の仕事が機械にとって変わり仕事がなくなるというのです。
最近、人工頭脳ということも話題になっていますが、なんだか恐ろしい世の中になるような予感がします。機械が人間を支配する世界。S、Fのような世界が始まろうとしているのでしょうか。
「しんどい仕事はみんな機械にまかせ、私たちはのんびり遊んで暮らせはいいのよ。」という人もいますが、さてそれで人は幸せなのでしょうか。

ガンディーの魂の言葉から、
「機械は人々の労働を軽減するもの、そう言われている。しかし、注意して欲しい。機械はそんな博愛の心で動かされていない。一握りの人々が莫大な富を生み出すため動かしている。機械は、そのために職を失った人々を飢餓の道端に放り出し、彼らに渡されるべき富を、一部の人々に集めるために働いているのだ。」

自給自足や簡素な生活を重んじるガンディーの思想は時代錯誤なのでしょうか。

大量生産、大量消費という社会のあり方で日本の経済は成長してきました。
でも、それはもう行き詰まりを見せているのも現実です。
今、社会がなんとなく不安定な状況にあるのもそのためなのかもしれません。
日常に必要なものをできるだけ自分たちの手で作り出すこと。
今までの生活スタイルを少しずつでも変える努力をすること。
そのことによって本当の豊さを手に入れることができると思います。

私たちの活動もその一つだということをあらためて認識しました。
先日、春のバザーが開催されましたが、保護者の方たちが心をこめて作ってくださった物がたくさん並びました。

日常の保育の中でも、自分の手で、色々なものを作ることの喜び。
機械で動くおもちゃではなく、子どもたちの手によってあそびが作り出される素朴なおもちゃたち。そのような環境の中で子どもたちを育てることの大切さもあらためて感じています。
この活動は、子どもたちの健やかな身体を作るのと共に、地球の自然を守り、思いやりの心を育んでくれます。

私たちの活動は、今は本当に小さく微力ですが水面の輪のように優しい人たちの中で広がっていく予感がします。

ガンディーの魂の言葉
 私は信じている。
 人々を思う純粋な愛のあるところには、必ずや神がいらっしゃると。
 だから、糸車を回すたびに、この糸の一本一本に宿る神を感じるのだ。
 手仕事には神が宿る。


樋口 早知子

by kusunokien | 2016-04-11 10:57 | くすのき園つうしんより

テレビを見るということ

この冬休み子どもたちは、おじいちゃんやおばあちゃんの家、友人の家などでテレビを見る機会があったのではないでしょうか。くすのき園の家庭ではできるだけテレビを見せないようにと気をつけて下さっているのですが。
子どもが見たがるからと映像は見せないで音だけにしているところもあるようでどの家庭も様々な努力をしておられるようです。この機会にもう一度テレビを見ることを考えてみたいと思います。

小児科医のミヒャエラ・グレックラー氏の著書、「才能と障がい」の中でテレビを見ることの弊害について次のように述べておられます

「テレビ映像ほど知覚に確実に影響し、
間違った刺激を与えるものは他にありません。」


テレビで映し出されるものは本物ではないということ。色も大きさも違います。健全な知覚を持った観察力で見るものは、視覚、聴覚、味覚、嗅覚などが互いに作用しあって、それらが一体となって行われるのだといいます。

二次元の平面でしか写らないテレビ画面では、物を立体的に見る視覚の練習をすることさえできません。物の形を認識するのは、運動感覚が働いているからなのですが、テレビを見ているときは、目の筋肉さえ動かさなくなるそうです。眼科病院では、眼球手術の後、眼の筋肉全体を動かしてはならないときに、数時間テレビを見るのが最も効果的なのだそうです。

グレックラー氏は、
「6歳までの子どもたちから完全にテレビや機械のおもちゃを遠ざけ、子どもたちの周りの環境と正しく取り組めるように、彼らには周りの環境をありのまま与え見せることが大切です。」といわれます。

また、グレックラー氏は次のようにも言っています

「テレビが私たちに与える一番の悪い影響は、後になっての思考力の停滞です。」

テレビを見ることによって、脳は成長する大切な時期に受身の情報採取に慣れてしまって、物事に対して活発に疑問を持ったり、それと真剣に取り組んだり、自分でイメージを作り出すことを学べないといいます。

それによって創造する力や活動する力が減少してしまいます。
自分で考えようとする強い意志も欠如してしまいます。
物事を知的に確認することはできても、問題を解決するために自分自身の考えを発展させたり、特別な状況から打開策を見出したりすることができなくなると。

確かに、私自身も非常に疲れていて「もう何も考えたくない。」というとき、
ボーとテレビを見る時があります。そんな時思考力は完全に停滞しています。
成長しつつある子どもには大変な問題です。
テレビは、子どもたちにとって魅力的なもの。
それとどう対処していくか、もう一度各家庭で考えてみてください。

樋口 早知子

by kusunokien | 2016-01-12 11:14 | くすのき園つうしんより

道徳のはなし

北野武氏(ビートたけし)の「新しい道徳」という本を読みました。
文部科学省によって道徳の授業が教科の一つになったのを受けて
武氏がその教科書に突っ込みを入れた本です。

今、子どもたちによるいじめや自殺が事件として取り上げられているのを受けて、文部科学省がもっと子どもたちに道徳教育をと教科の一つとして取り上げるようになったのだと思います。
が、どうも引っかかるのです。武氏もそう思ったのでしょう。

武氏は
「これが道徳です。と数学の真理と同じ調子で子どもたちに教えるのは間違いだ。
それは一つの価値観、あるいは思想を子どもたちの脳みそにうつし込むということ。
道徳というのは他の教科のように理屈で教えられるものではない。
道徳は、支配者がうまいこと社会を支配していくために考え出されたもの。
太平洋戦争の道徳教育を考えれば、あの時代、道徳は庶民を操る道具だった。
権力者は自分の都合で道徳を作る。都合が悪ければ道徳もころころ変わる。
時代と共に、ころころ変わるのが道徳の宿命なのだ。道徳は良心とは違うのだ。」
と述べておられます。

私も引っかかっているのは戦前の道徳教育を考えるからだと思います。
あの時代、お国のために戦争に行き天皇のために死ぬことは最も道徳的な人と教育され、
たくさんの人々が犠牲になりました。
政府が勧める道徳教育は意図がないかどうか気をつけて見ておかないといけません。

けれども、子どもたちには、何を大切にどう生きていくのかということを導いていくのは、
親や子どもと関わる教師たちの大事な使命としてあります。
子どもたちには、利己主義を克服し、他の人に役立つような人に育って欲しいと願います。
では、どのように導いたらいいのでしょう。

私は、シュタイナー教育の中に希望を見出しました。
シュタイナー教育ではあらゆる授業が倫理的なものと結合するのです。

たとえば算数の授業では、総計から出発して部分にわける方法で足し算が教えられています。つまり合計から出発して個々の数へ移っていくのです。
普通足し算は5+3=8というふうに学びますが、8=5+3と習うのです。

シュタイナーは「この方法は、言葉にいい尽くせないほど大きな影響を与えます。
もし、子どもが数を数えて増していく方法になれますと、欲望に従って行動するという傾向が生じてまいります。もし、全体から部分へと進んでいき、また、それに対応した掛け算のやり方を学んでまいりますと、子どもは欲望を過度に発展させることなく節度が育ちます。」と。

今まで学校の授業で当たり前に学んできた方法が欲望に従って行動する傾向が生じるなどとは思いもよらないことでした。

しかも、総計から始める足し算では答えが一つではないのです。
算数の答案は、常に正しいか間違っているかしかなかったのですが、
全体からですと8=6+2でも4+4でも8です。答えはその他にもたくさん考えられるのです。

無限に物やお金はないということ。
有限な物やお金をどう使うかは個々の人に任されていること。
そして答えは一つではないということ。こんな大切な真理が含まれているのですね。

もちろん、算数の授業だけではなく、倫理的な判断を形成することができるように準備してやることも大切です。

シュタイナーはかくあるべしという規律ではなく、過去や現在の優れた人たちの話を聞かせること、空想上の人物の優れた行いを語り聞かせることなどを通して、子どもに善に対しての像を与えることができるといいます。
どの人物が優れているのかという判断は大人にゆだねられているのですが。

何はともあれ、一番大切なことは、模範となる行為を子どもの目の前に提示することです。
それはつまり子どもの身近にいる大人がどう生きているかを見せること。
武氏も自分の道徳観は母親から今も影響を受けていると述べておられます。
武氏がいうように、道徳教育を人任せにするのではなく、自分自身がどう生きるかとしてとらえることこそ大切なことなのですね。
これが一番難しいことなのかもしれません。

樋口 早知子

by kusunokien | 2016-01-12 11:06 | くすのき園つうしんより