自由への教育 シュタイナーが目指したものはなにか

子どもを畏敬の念
をもって受け止め
愛をもって教育し
自由に向けて解き放つ
     Rシュタイナー


 シュタイナー教育は自由への教育といわれます。「自由」という言葉は私たちに、「いいなあ。子どもは自由にのびのび育って欲しい。」と思います。自由という言葉に憧れを持つのは、私たちは未だに自由に生きていないと思っているからなのかもしれません。
「自由」とはいったいどういうことなのでしょう。幼いころから、自由に好き勝手させることが自由な人につながるのでしょうか。

 ミヒャエル・エンデ著の「自由の牢獄」という短編集を読みました。エンデは「はてしない物語」や「モモ」の本でも有名です。彼は、シュタイナー学校出身でシュタイナーの思想にも影響を受けていると言われています。

 「ミスライムのカタコンベ」という短編では、主人公のイブリィーは深い地下の世界に住んでいます。ここの人たちは影の民と呼ばれ、ここからどこへも行ったことがありません。この世界の最高司令官べビモートは、いつも影の民に語りかけ、指示や命令を与え、ほめ、叱り、仕事を指導しています。陰の民は誰一人そのべビモートの言葉に逆らうものはいませんでした。
しかし、ある日イブリーは気づいたのです。世界はここだけではないのではないか、この世界の他にもいくつもの世界があるのではないか。そうだとするとここは牢獄以外のなにものでもない。あの最高司令官はただの牢番にすぎないのではないか。と
イブリーは外の世界に通じる出口を探し、地下の中をさ迷い歩きました。そんなかってな行動をしているのはイブリーただ一人です。イブリーは影の民に説得を試みました。私たちは囚われていること、外には自由な世界があることを伝えました。そして、団結して戦い権力者から私たちの自由を勝ち取るのだと訴えました。
イブリーに従うものが次々に増えていきました。やがて彼らは棒やパイプなどを手に取り迷宮の中を行進していきました。ついに出口に到着したとき、司令官べビモートが立ちふさがります。彼は聴衆に向かって語りかけます。「ここから出て行きたければ出て行っていいんだよ。しかし、この外に何が待ち受けているか知っているか。外の世界はお前たちが住める世界ではない。右も左もわからなくなる。お前たちが頼れるものはそこには何もない。すべてを決めなければならない。巨大な空虚がお前たちを飲み込むのだ。さあ決めるがよい。この男と共に脱出し、滅びるか。」と。みんな立ち止まってしまいました。
その出口から出た者は、イブリー一人だけでした。イブリーが外の世界に足を踏み入れたとき、影の民は、イブリーの絶叫を聞きました。でもそれが歓喜きわまる叫びなのか、絶望の叫びなのか言えるものは誰もいなかったそうです。

もう一つの話はこうです。ある男が大きな円形の建物に連れて行かれます。そこには窓がなく壁には無数の扉が連なっており、どの扉も閉じられていました。男はこの場所から逃れたいと思いました。けれどもどの扉を開けて逃げ出せばいいのか迷っていると、姿の見えない声がしました。
「扉には鍵がかかっていないよ。どこからでも出て行ける。けれども、ある扉の向こうには、血に飢えたライオンが待ち構えているかもしれない。また、違う扉の向こうには、妖精でいっぱいの花園かもしれない、また、ある扉の向こうには、宝石がいっぱいあるかもしれない。またある扉の向こうには、恐ろしい怪物が待ち構えているかもしれない。お前はここで己の運命を選ぶのだ。よき運命を選ぶがよい。ただし、一つの扉を開けたが最後、他の扉はすべて鍵がかかってしまう。やり直しはないぞ。よく選ぶがよい。」
 男は円を一周してみたり、扉の数を数えたり反対方向に回ったりしますが、選べません。日が経つにつれて扉の数がだんだん減ってきました。最後はたった二つになりました。けれども、無数の可能性から選ぶのも、たった二つから選ぶのも度々のつまりは同じことでした。選べません。そして扉は一つになり、ついにすべてなくなってしまったところで、男は夢から覚めました。

 この二つの物語から、私たちは、いまだ自由を求める旅人なのだと思いました。 人間は、封建制のような身分制社会から民主主義社会へと人間の自由度を拡大してきました。しかし、未だに「自由な社会に放り出される不安。」「選べない」。という自立できない現実が立ちはだかっています。また、自由な行動が個人主義、利己主義に陥ってしまったり、罪を犯してしまったりする危険も待ち受けています。

シュタイナーは、人間は自由なのかどうかと問うのではなく、いかにして自由になりうるかと問うべきであると言います。

 旧約聖書の創世記には、アダムとエバの物語があります。神さまから決して食べてはいけないと言われていた木の実がありました。ある日、エバは蛇に「この実を食べると神さまのように善悪がわかるようになるよ。」と、そそのかされ食べてしまいます。神さまは怒って二人をエデンの園から追放してしまいます。
人は神によって創造されましたが、神のあやつり人形ではありません。もし神がアダムとエバを思い通りにしたければ、最初から「知恵の実」を植えなければよかったのです。しかし、神さまはそうされなかった。神さまは人に自由を与えられましたが同時に罪を犯す自由も与えられました。

神さまは、誰かに(神)言われたからするのではなく、自分の意志で善を成すことができる人間になってほしいと願われたのかもしれません。

 フランス革命のスローガンに自由、平等、友愛があります。シュタイナーは法の下での平等を、経済には友愛を、精神には自由をと訴えておられます。
シュタイナーのいう精神の自由とは「自分の生きる理念、生きる意味に照らして、不完全さを認めたうえで最善の行為を選べることこそが自由である。」と述べておられます。正しい行為を選ぶこと、その誤りを最小限にできるように人間性を磨くこと。そのことが真の意味で自由になるということなのだと。

ではどのようにすれば精神の自由を育むことができるのでしょうか。

 シュタイナーは0歳~7歳までに模倣環境を整えることによって精神の自由を育む基礎を作ることができるといいます。
模倣活動というのは、周りを信頼し、それと同一化しようとする試みなので、自由に開かれた精神を備えているというのです。模倣活動は誰かに言われたから行う行為ではありません。
大人の役割は、模倣に値するよきモデルになることです。そして、


子どもを畏敬の念を
もって受け止め
愛をもって教育し
自由にむけて解き放つ


忘れてはならない言葉です。


樋口早知子

by kusunokien | 2017-09-05 01:47 | くすのき園つうしんより

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