シュタイナー教育がめざすもの 「自由をどう生かすか」

村上春樹の「色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年」という本を読みました。

人にはそれぞれみんな自分の色があるのでしょうか。「色」。
それは個性や性格として現されるのでしょうか。
人生の岐路に立たされたとき、どう決断し行動するのかということもその人の持つ「色」が影響するのでしょうか。




その本の中に、「良いニュースと悪いニュース」
という話がでてきました。
 
つくる君の友人が講師を勤める新入社員研修のセミナーで最初にする話です。


「君にとって良いニュースと悪いニュースがある。まず、悪いニュース。今から君の手の指の爪を、あるいは足の指の爪をペンチではがすことになった。気の毒だがそれはもう決まっているんだ。変更はできない。次に良いニュースの方だ、良いニュースは、はがされるのが手の爪なのか、足の爪なのか、それを選ぶ自由が君に与えられている。さあーどちらにする。一〇秒のうちに決めてもらいたい。もし、自分で決められないなら手と足、両方の爪をはがすことになる。」

だいたい、8秒で研修生は「足にします」と言うそうです。「いいよ。足で決まりだ。しかし、なぜ手じゃなく足なんだ。」すると「わかりません。どちらもたぶん同じぐらい痛いと思います。でも、どちらかを選ばなければならないので、仕方なく足にしたんです。」と答えるそうです。講師は相手に向かって「本物の人生にようこそ」そして「おれたちゃ、みんなそれぞれ自由を手にしている。これがこの話のポイントだよ。」



この話、皆さんはどう思われますか?

もう一つの話です。
先日、友人に誘われてコンサートに行ってきました。ゲストに永六輔が招かれていました。
彼は今パーキンソン病に罹っていて車椅子で登場しました。

彼は、病院での歩行練習の話をしてくれました。
「若いリハビリの先生に、鏡に向かって歩いてと言われたの。歩いていくと遠くに僕が写っているわけ。なんと言ったらいいんだろう。向こうから年寄りがヨボヨボと歩いてくるわけ。それは、まぎれもなく僕なわけ。次に、もっと上を向いて歩いてください。上を向いて、♪上を向いて歩こうと歌いながら歩けと言うの。『上を向いて歩こう』の歌を作った本人が上を向いて歩こうと歌いながら歩く練習をしているのを見たら、それは笑うぜ(笑)・・・」という具合に笑える話が続くのです。

自分の今の状況を客観的に見ることができる視点。
それを、笑い飛ばして話ができるってすごいなあと思いました。
とても辛く苦しいことに変わりはないのに。

人生には、自分の能力や努力ではどうしようもないことが起こります。
たとえば、災害にあったり、事故にあったり、病気になったりします。
そんな時、どうするのでしょうか。

そんな境遇になったことを受け入れられず、世の中や人のせいにして生きる。
あるいは嘆き悲しみ、ふさぎこんで生きる。あるいは、必死で今の状況を乗り越えようとする。
あるいは、永六輔のように、自分の姿を客観的に眺め、笑い飛ばして生きる。
いろんな生き方がありますが、選ぶのはそれぞれ人には自由が与えられているのです。

良いニュースと悪いニュースの話。
人間には選べる自由がある。といっても所詮どっちを選んでも同じようなものではないか。
それが人生というものだよ。と考えるか、いやいや手の爪は無事でよかった。
手が動けば色んなことができる。と考えることもできます。


さて教育の話です。
私たちは子どもたちには、どんな状況の中でも、正しい判断を下し、決意し、行動できるような人になってもらいたいと願っています。
それは教育によって可能なのでしょうか。
私は以前、子どもに自主的で自分で考えて決めることができる子どもに育って欲しいという思いから、幼児期の子どもに、選ばせたり、考えさせたり、判断させたりしていました。

シュタイナーは、
「けっして、一四歳までの子どもに判断力に働きかけてはなりません。七歳までの子どもには、大人が模範を示し真似させること。一四歳までの子どもには、権威と信頼と畏敬が大切です。一四歳以降になっても、未熟な考えで判断をさせることは危険です。二〇歳になるまでは原理原則が必要です。」といいます。

私は、早期教育を批判しながら、こんなところにも同じような過った考え方に陥っていたことに気がつきました。
それぞれの年齢にふさわしい働きかけが必要なのですね。
待つこと、見守ることもできなければ…ですね。

樋口早知子
by kusunokien | 2013-09-18 16:15 | くすのき園つうしんより