ワークショップのご案内

お正月飾り作り


2021年12月19日 (日)

13:00~15:30


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もうすぐクリスマス、

そしてお正月がやってきます。


くすのきえんでは昨年に続き、

お正月のリース作りのワークショップを開催します。


緑の葉っぱや枝、羊毛の飾りなどをつけて作ります。

時間に余裕があればクリスマス飾りも作れますよ。


忙しい時期のひととき、

ゆったりと創作することを楽しみにいらしてください。



費用: 


2500円(材料費込み)

*材料費500円追加でリース作りも可

  

親子で参加の場合は子どもは

材料費(500円)のみで参加していただけます。



定員: 


7~8名程度


お問い合わせ:

558-0056

大阪市住吉区万代東1丁目4-11

06-6608-8080


mail:

kusunokien.sumiyoshi@gmail.com


HP:

https://www.kodomonoie.org


# by kusunokien | 2021-12-12 15:55 | ワークショップ

 これからの子どもたちのために、よりよい社会を作っていくのが大人の役割です。今、直面している大きな課題とは何でしょうか。

 核戦争を含む世界的な戦争。

地球温暖化による環境破壊。








 誰もがわかっている大きな課題ですが、私たちのような小さな力のない存在がいったい何ができるのかと自問してしまいます。


 核の問題や、温暖化の問題よりももっと深刻な問題が進行しつつありますよ。と警鐘を鳴らしている人がいます。歴史学者のユブァル・ノア・ハラリ氏が新聞のフォーラムにこんな記事を乗せていました。


「AIが支配する社会」と題して、国民は常に監視下。膨大な情報を持つ独裁政府が現れる。


 AIと監視技術の進歩で歴史上存在したことのない全体主義的な政府の誕生につながるでしょう。AIとバイオテクノロジー、生体認証などの融合により独裁政府が国民すべてを常に追跡できるようになる。二十世紀のスターリンやヒットラーなどの全体主義体制よりもずっとひどい独裁政府が誕生する恐れがあるというのです。


 彼は、一部のエリート、あるいは独裁的な政府による支配から逃れるにはどうすればいいかと問うています。誰がデーターを所有し、どんなAIを開発しているのかが問題です。少数の企業や政府がすべてのデーターを所有するようになったら手遅れです。逆らおうとする者は簡単にスキャンダルを見つけ出され、おとしめられます。と


 今、日本でも消費税の引き上げに伴い、キャッシュレス化が急速に広がっています。便利さと何パーセント還元とかの甘い誘惑に皆、踊らされているように思えてなりません。キャッシュレス化は、何を買ったのか、どこへ行ったのか、どんな本を買ったのかなどの個人の情報がすべてデーターとして残ります。

政府はうまいこと考えたものだと思います。消費税引き上げの反対も抑えられ、国民一人ひとりを丸裸にすることができるのですから。


 新聞にこんな記事も載っていました。アメリカでは口座の無い貧困層は排除されていると。

 IT企業が多いサンフランシスコは現金を取り扱わない小売店が増えていて、銀行口座を持っていない人たちは、現金が使えないことで食事もままならない状況になりつつあるというのです。そして最後にキャッシュレスの戦国時代を生きる決済業者は、新たな「支配者」への道を先に見すえていると。


 多くの人が気づかない間に、得体の知れない社会が世界中で広がっていることに不気味さを感じます。

 個人が抹殺され、人々は一部の独裁者や機械に支配されるSFの世界のような時代が迫ってきているのでしょうか。

お店には店員さんが一人もいない。自動車を運転する人も誰もいない。働く場所も機械にのっとられる。そんな世の中がすぐそこに押し寄せてきています。


こんな世の中で子どもたちが生きていかなければならないとしたら、私たち大人は子どもたちに何ができるのでしょうか。


ハラリ氏は、データーを使われ操作されないためには己を知り抵抗する必要があるといいます。今は急を要します。  あなたを監視し、解読しようとする企業や政府があるからです。彼らがあなた自身よりもあなたを知るようになったら、あなたを操作するのは簡単ですと。抵抗するにはまず、あなた自身の弱さを認識する必要があるといいます。


 自分自身を知り、自分の弱さを認識するには「自我」が育っていなければなりません。


 100年前に生きたシュタイナーも教育の最終目的は「自我」を育てることにあると解きました。

シュタイナー自身、今のような世の中が到来すると認識できていたのでしょうか。

 古来ソクラテスも「己」を知ることの大切さを人々に説きました。

「自我」は人間一人ひとりの中にあり、どの人にも、人間だけに備わっている神さまからの贈りものです。


  わたし

     さかのまこと

   

  わたしのなかの

    こころのおくに

  大きなわたしが

すんでいる


  わたしがひとに

    いじわるなとき

 大きなわたしは

    かなしそう


 わたしがひとに

   しんせつなとき

 大きなわたしは

   うれしそう


  わたしをじっと

     みまもっている

  大きなわたし

    ほんとのわたし


 この詩はシュタイナー学校の2年生の授業で唱えられている詩です。


 子どもは三歳ごろになると自分のことを「ぼく」「わたし」というようになります。「自我」の芽生えです。でもこのときの自我は自己中心的。「ぼくが」「わたしが」と自分の主張ばかり。


ここから、一生かけて本当の自分を探す旅が始まります。


 でも、子どもたちが成人するまでに「自我」が育っていなければ自分を知る道も閉ざされてしまいます。


 シュタイナーは自我が育つためには、人生そのものである意志と感情と思考がバランスよく育つ必要があると説きました。また、それぞれが育つ時期があり


意志は0歳~七歳

感情は七歳~十四歳

思考は十四歳~二一歳


だといいます。決して順番を間違えたらダメだとも。


 今の教育の問題点は、思考にばかり重点がおかれ、意志も感情も育てなければならないという視点がほとんど見られません。しかも思考は知識ばかりを詰め込む傾向があり、自分の考えを持つような教育にはなっていないように思います。


 もうすぐ、七歳を迎えようとしているくすのき園の子どもたちです。「意志」がしっかり育っているのでしょうか。おもちゃの取り合いでけんかもするけれど、譲ってあげたり、我慢することもできるようになっています。リズムのある生活を送っていることで、大人の指示がなくても行動できるようになっています。何よりも自分のしたい遊びを見つけて友だちと一緒に遊べていることです。意志が育ってきているなあと実感しています。

思考は、何が真実なのか見極める力になり、


 感情は、美しいものを大切にする力になり、


 意志は、善なる行為へと導く力となりますように。


 シュタイナーが教育に託した思いです。その遺志を受け継ぐには、私たち大人も「私」を知り自分自身を高めていく必要があります。

ハラリ氏は、瞑想や、芸術に触れる、山登り、ハイキングなど人それぞれに、自分を理解する機会を持つことを勧めておられました。子どもたちと一緒に楽しみながら大人も共に育つことができればいいですね。



# by kusunokien | 2020-01-11 18:32 | くすのき園つうしんより
子どもたちの自由な遊びの中に、自由な精神が宿る。

シュタイナー教育で、目指す目標は「自由への教育」です。

その根本的な考えを記した本が「自由の哲学です」この本はシュタイナーが三十三歳の時に書かれた本で自身が千年後も残る代表作と語っている本です。
ゲーテ的自然科学者である森章吾氏が7回読むのにふさわしい翻訳を出版されました。私は、ミカエルカレッジでも「自由の哲学」を学びましたがよく理解できず、また高橋巌氏訳の本を読みましたがさっぱりわからず、結局最後までたどりつけませんでした。今回は、3度目のチャレンジなのですがやっとのことで最後までたどり着けました。でも本当に理解ができたかと言われると?だらけです。哲学書など読んだこともない私にはハードルが高い本ですが森氏が言うように7回チャレンジすれば理解できるようになるのでしょうか。そんな中でも3度目の今回は、発見することもあって、ぜひそのことをお伝えしたいと思います。

「自由」という言葉は、私たちの憧れの言葉です。その言葉を聴くだけで何かよいものがやってくるように思います。それだけ私たちは不自由な思いを抱いて生活しているためでしょうか。

この本の始めにシュタイナーは問いを立てています。

「意志する人間は自分を自由だとみなすことができるのか。意志には自由があるのか。それとも意志には必然しかないのか」

そもそも「自由」とはどういうことなのでしょう。好き勝手に自分で思うように何でもできることが自由なのでしょうか。子どもを育てるとき「好きなようにしていいのよ。何でも自由に選んでいいのよ」と言って育てることが自由な子どもに育てることに結びつくのでしょうか。自由も一歩間違えるとただのわがままを生んでしまうのではないかと思ったりします。

この本の3度目のチャレンジでの最大の収穫は、シュタイナーが目指した「自由」とは「精神の自由」だということがわかったことです。

「精神の自由」とは、私たちの内にある本能や欲望や衝動といった低次のものを乗り越えてそこから自由になることを目指すというものです。これはとても難しいですね。たいていの人はこのような低次のものに縛られて生活しているのが現状ですから。
シュタイナーはそこから自由になるために必要なことは、行為を行っている動機を認識することだといいます。どんな行為もその行為者が何故そうするのかを自覚していなければ自由な行為にはなりえないというのです。
動機を認識することができれば、その行為が本能や衝動や欲望から一歩前進した証だといいます。

では、道徳的な行為はどのように考えればいいのでしょう。動機を認識さえできれば善なる行為が出来るようになるのでしょうか。子どもたちには「よい行いはこうですよ、悪い行いはこうですよ」と教え導かなければどうやって学ぶのでしょう。シュタイナーは家長や国家、社会道徳、教権、神の啓示などとして認められる道徳上の権威からの命令に従っているのでは自由ではないと言います。「行為の基準を自分の動機の中に見出し、その行為の根拠を洞察しようと努力することは、道徳上の上でも一大進歩を意味するといいます。その進歩は権威による道徳から認識による行為への進歩だと。

そのためには、シュタイナーは「行為への愛が必要」だというのです。
 
その行為を愛していれば、わたしは行為する主体であることができ、その行為は悪になることはなく「善」になると。

行為の動機を認識すること。
その行為を愛すること。

この2つが精神の自由を獲得する鍵なのだと言うのです。
 
子どもたちの自由な遊びの中に自由な精神が宿る。

私は、以前勤めていた保育所で「お店やさんごっこ」をしたことがあります。まずグループを決め、何のお店にするか相談し、お店で売るものを作り、お客になる子を決めます。あそびはとても盛り上がり、子どもたちも楽しそうでしたが、すべて保育士が設定し、指示をして進めた遊びです。子どもたちはいったい何を学んだのかと今になって思います.子どもたちはただ保育士の指示に従っていただけなのではないかと。

くすのき園の自由遊びでは、

回転寿司屋さんごっこを始めたAちゃんとBちゃん。家族で行った回転寿司での楽しかったことを思い出したのでしょう。まず、いすを丸く並べ、その上にお寿司を並べていきます。お寿司はお手玉や木の実、羊毛ボールなどを組み合わせて作っていきます。お寿司の材料は、別の遊びの時には別のものに変身します。私が指示したお店やさんごっこで作ったものは遊びが終わるとほとんどゴミ箱へいきましたが。
さあ準備ができました。大声で「回転寿司屋さんですよ」と呼び込みます。でも誰も来ません。
「だれも来ないね」
考えた二人。宅配を始めました。「お寿司はいかがー」「お寿司はいかがー」
他の遊びをしていた子どもたちは、「ください」「ください」と大繁盛になりました。デリバリーを考えつくとは。

子どもたちの自由な遊びでは、大人の指示や命令は受けていないこと。その遊びが大好きなこと。これこそ自由な精神が宿っていると改めて思いました。

シュタイナーの道徳教育で大切にされていることは、乳幼児期にはまわりに道徳的は大人がいること。小学生の時期には道徳的な体験を大人が指し示すこと。高校生には、こうすればこうなるという結果の体験をさせること。起こったことを一緒に考え、道徳を強制するこはしません。
正しく観察すること。正しく理解すること。そのことによって正しい行為が出来るといいます。
道徳的に行動するためには特に知っておく必要のあるものは倫理学ではなく自然の法則だというのです。

私たちは、行動するときつい感情に任せて、衝動的に行動してしまいます。まず、じっくり考えてから行動することが求められるのですね。

「子どもをただ遊ばせているだけで何が学べるの」という意見があるのも事実です。けれども、子どもの自由な遊びには、「こんなことを覚えた。こんなことができるようになった」という具体的な結果は見えにくいけれど、かけがえのない自由な精神が宿っているのです。わたしも保育士として、子どもたちに何かを教えなければという呪縛から解放されなければと思いました。
自由とは人間が目指していく大きな目標。遊びの体験を重ねることが大きな一歩になりますように。

# by kusunokien | 2019-09-06 02:23 | くすのき園つうしんより
 最近は特に、親から虐待を受けて亡くなる子どもや、いじめを苦に自殺する子どもの報道を耳にするようになりました。子どもを取り巻く環境が年々ひどくなってきているのでしょうか。
学校の先生や教育委員会の対応のまずさや児童相談所の連携のまずさなどが指摘されています。
 

 けれども、このような問題は、今に始まったわけではなく、虐待やいじめなどは昔からあったことです。今の子どもたちの状況と昔の子どもたちの状況はどう違うのでしょうか。

子どもたちの健やかな成長は誰もが望んでいることです。子どもたちは未来の社会の担い手になるのですから。子どもたちと関わる私たち親や教師はいったい何ができるのでしょうか。

 そんなことを考えていたとき、村瀬学という人の書いた「銀河鉄道の夜とは何か」という本を思い出しました。

この本は、今から20年も前に書かれた本ですが、その当時も友だちを殺した女子中学生の事件や少年Aが顔見知りの幼い友人を殺し、首を切りそれを校門の前に飾った事件などショッキングな事件が相次いでいた時代です。

 村瀬氏は最初に問いを立てています。
 子どもが、自分で死を選んだり、身近な人を殺したり、自分の命を顧みず人を助けたりできるのは、いったい何時なのかという問いです。
 「銀河鉄道の夜」は宮沢賢治の作品です。

 ジョバンニという少年は母親と二人暮らしの貧しい家の子どもです。父親は漁に出たまま行方不明になっています。そのことで級友からいつもいじめられていました。今夜は星祭の日で級友たちはお祭りに出かけています。ジョバンニだけが一人お母さんからの用事で牛乳をとりにいかなければなりませんでした。その途中、ジョバンニは丘に登り寝転んで星空を眺めていました。ジョバンニは午後、学校で聞いた先生の話を思い出していました。
「川だといわれたり、乳の流れだといわれたり、このぼんやりと白いものは本当は何かご承知ですか」

ジョバンニは授業で先生の銀河についての科学的な話を聞いてそうかと思いつつ、いや夜の空はそうではない。どこかの本で読んだサソリや勇者や蛇や魚がいるような気がしています。

すると夜空に汽車が現れ、気がつくとジョバンニはその汽車に乗っていたのです。

 その汽車には様々な人が乗ってきます。キリスト者、少年、少女、尼さん、鳥捕り、そしてカンパネルラ。カンパネルラはジョバンニを唯一いじめない級友でした。

これらの人々はある意味において「物語」を信じている人々。つまりこれらの人々はみんな、事実だけに生きるのではなく、物語をも同時に生きようとしてきた人たちだと村瀬氏は言います。

 この汽車はまさに物語と科学の間(境界)を走るものとして設定されているというのです。

 これらの乗客は次々に「汽車」から降りていきます。乗客が「事実」か「物語」かのどちらかに傾きすぎたら、この汽車から降りなければなりません。境界にいることができなくなると、人はどちらかの領域に向けて出発していかなければなりません。
 カムパレルラもいなくなってしまいます。

 ジョバンニは現実の世界に返り星祭が行われているところに行ってみると、カムパネルラが級友を助けるために川に飛び込み行方がわからなくなっていることを知ります。

 この物語から、この汽車は死後の世界を走っていると解釈する人もいます。しかし村瀬氏は少年から青年に移行する時期の物語として描いていると解釈しています。少年であれば、自分の身を守る範囲で助けようとするか、あるいは誰かに助けを求めただろうというのです。カンパネルラは少年から青年へと旅立って行ったのだと。

 青年期に旅立つ者はみな一人になるといいます。青年たちが新しい関係を得るために古い関係を切っていくようなところも現れます。

 つまり一方でたくさんの関係の死を体験せざる得なくなるというのです。それは、家族や友人との口論というレベルから、家族、知人への暴力、殺傷といったレベル。そして自死までの様々なレベルをふまえて現れてきます。これらの現象は、青年が生まれるためには、なんらかな形で「死」が体験されなければならないことを物語っています。

 最後のシーンでカンパネルラは青年へと旅たっていきました。ジョバンニはその領域に踏み込むことができず、彼と別れて少年へと立ち戻っていきます。

 さて、子どもたちに目を向けて見ますと、物語を生きる時期が今の子どもたちはとても短くなっているように思います。また、逆に現実の世界にいつまでたっても入っていけない子も増えているように思います。両極端になっているのでしょうか。

 お話や絵本を読んであげた後、以前勤めていた保育園では、「そんな話、うそや」と言う子がいました。
 中学生で自殺した子は、学校と家庭だけの狭い世界の中でしか生きることができず追い詰められたのでしょう。もっと想像したり空想したりして世界を広げることができていたらと思います。

 テレビの世界では、映像として写るので、想像する力も空想する力も奪われます。ゲームにのめりこむと偽りの世界でしか生きられなくなります。

 昔話や、良い絵本は感情を豊かに育んでくれます。

「感情が育つとこの世の善悪をますますしっかりと判断することができる人になります。善や正義を喜びと感じ、悪や不正を悲しみと感じるようになります。」とシュタイナーは言います。

 昔話には、人をだますもの、ずるいことをするもの、悪事をはたらくものなどいろいろなものが登場しますが最後には必ず善なるものに幸福が訪れます。 
 お話を通して困難な状況を乗り越える力と生きるための指針が育まれますように。
そして、どの子にとっても難しい青年期への移行の手助けとなってくれることを願っています。
 
そのためにもお話や絵本を幼児期だけではなく小学校へ行っても、たくさん読んであげたいものです。

# by kusunokien | 2019-04-08 20:39 | くすのき園つうしんより
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羊毛⼈形 花の王⼥さまを作りましょう

⽇時 2019年3⽉23⽇(土)10:00〜12:00
場所 くすのきえん 参加費2000円 (材料費込み)

ミツロウ粘土のかんむりをかぶった
花の王⼥さま。
春のお花畑をイメージしてドレスは
それぞれお好きな⾊を選んでいただ
けます。
ミツロウ粘土のかんむりはあらかじ
めこちらで用意いたします。

ひとりで遊べるお⼦さまは⼀緒に参
加いただけます。

※3/9までに電話かファックスでお申
込み下さい。

春のリース、人形の販売もいたします!


くすのきえん
あびこシュタイナー幼稚園
大阪市住吉区遠⾥⼩野5-7-28
Tel/Fax : 06-6608-8080


# by kusunokien | 2019-02-26 22:25